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泣き虫ジュゴン(1)

by 森巣ちひろ

 ただ立っているだけでいい。

 重吾は指示通り廊下に立っていた。教室に入っても立っているだけでいい。転校初日の挨拶で、担任からそんな指示を受ける生徒が世界に何人いるだろう。

 どのみち中学三年になってからの編入なので、クラスに馴染めなくても関係ない。ただ、悪目立ちすることだけは避けたい。

 先生が教室のドアを開け、先に入ってゆく。白髪の交じった短い髪と大きな背中は、表情の乏しい四角い顔よりも寡黙だが、安心感があった。亡き父の薄くて細い背中と比べる。

 開け放したドアからは、教卓と先生の姿だけが見える。少し角度を変えれば生徒たちの顔も見えるだろうが、重吾は逆に一歩左にずれて、教卓すら死角に収めて黒板を見つめた。

 今日はみなさんに新しいお友達を紹介します。などという定型文は口にせず、先生は転校生が来ることを淡々と説明して、「入りなさい」とうながした。

 いやが上にも盛り上がる教室に、一歩踏み出そうとした足がすくむ。

 先生は急かすことなく、じっとこちらを見つめている。しだいに歓声が落ち着いてきた。訝しんでいるというより、こちらの緊張に配慮しているのが伝わってくる。おかげで余計に緊張した。

 大きく息を吸い込み、止める。

 重吾が教室に入ると、静かな拍手が迎えた。生徒たちに顔を向けず、先生の足もとを見つめたまま教壇の横まで進む。

「清水重吾くんだ」

 先生があらかじめ書いておいた黒板の名前を指して紹介する。クラスメイトと向かい合ったのは一瞬で、すぐに頭を下げた。深々と礼をしている振りをしながら、自分のつま先を見つめ、時が過ぎるのを待つ。

 パントマイムでもしてひと笑い起こす。という出来もしないシミュレーションが浮かんで消える。

「清水くんは前の学校では水泳部のエースだった。全国大会で一位をとったこともある」

 おおー、と騒ぎ立てる声に気圧される。まるで総合優勝でも果たしたような言いぐさだが、重吾が一位をとったのは平泳ぎの二百メートルだけだ。それでも充分快挙ではあるが、できることなら目立ちたくなかった。人の活躍を手放しで喜んでくれる人ばかりとは限らない。目をつけられたくない。

 しかしその騒ぎのどさくさに紛れて、ようやく顔を上げることができた。ぱっと見た感じではみんな素直に感心してくれているような気がするし、あからさまに敵意を向けるやつも見当たらないが、胸の内までは透けて見えない。

「みんなにも伝えてある通り、清水くんはいましゃべることができない」

 ちゃんと事前に説明してくれていたようだ。打ち合わせ通り、ただ立っているだけでなんとかなるかもしれない。

 先生が振り返って黒板に文字を書く。

 横目に「失」の次の字の一画が見えた時点で、さあっと血の気が引いた。

 失語症。

 重吾は先生を押しのけて黒板消しをつかむと、「語」を消して、震える手で訂正した。チョークの先が欠けて、文字はいびつに歪んだ。

 失声症。

 あっけに取られてクラス中が静まりかえる。先生も含め、みんなの頭に浮かんだクエスチョンマークが見えるようだ。

 失語症と失声症はぜんぜん違う。ただ声が出ないだけの失声症に対して、失語症は言葉の意味も理解できないという、より重い障害を指す。重吾の場合はちゃんと読むことも書くこともできるのだから、失語症は当てはまらない。

「どうした、清水くん?」

 唖然として訊ねる先生を睨む。重吾は口を開かない。質問をするという行為自体の残酷さに気付いたようで先生ははっとしたが、それ以上の理解には至っていないようだ。

 失声症と失語症は違う。そう説明したくても、しゃべれないのではどうしようもない。

 いっそ黒板に書こうか。

 教室を振り返ることもできず、自分で書いた「声」の字を見つめて立ち尽くす。きっと自分の中の「声」もこの文字のようにいびつだから、どこかに引っかかっているのだろう。喉のすぐそこまで来ている感覚はあるのに、どうしても出てこない。

「よろしくね、清水くん」

「困ったことがあったら言ってね」

「いや、言えないから困ってんだろ」

 クラスメイトが各々の声で沈黙を打ち破る。みんなの笑い声に他意がないのはわかるのに、何気ない冗談に胃がキュッとすぼまる。

 清水重吾、失声症、と並べられた黒板に背を向けて、よろしくという言葉を呑み込む。せめて笑顔で応えようと、昨晩何度も鏡の前で練習した顔は、黒板の「声」の文字のように歪んだ。

 目に溜まっていた涙が、ついに堰を切ってこぼれた。突然泣き出した転校生を笑う声はなかったが、視界がぼやけてみんなの表情は見えなかった。粘度の低い鼻水が、鼻の頭から教壇に落ちる。

「さ、席に着きなさい」

 先生に促されて席に着くと、重吾は腕を枕にして顔をうずめた。初日からとるような態度ではないが、誰もなにも言わなかった。

 みんな無言なのに、いろんな声が聞こえてくる。哀れみ、蔑み、あざ笑う声、声、声、声。それは重吾の中にだけ響く声だった。

 結局そのまま一限目の授業が終わるまで、重吾は顔を上げることができなかった。

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